《職場の教養に学ぶ》
お題:実りを支える力
2026年10月23日(金曜)
【今日の心がけ】見えない働きに目を向けましょう
砂川昇建の思うところ
秋の実りを、単なる収穫の喜びではなく、生命への感謝と、生き方を見つめ直す機会として捉える事ができます。植物は、人間のように他者と比較しません。隣の木が大きく育ったからといって嫉妬することもなく、自分の花が美しく咲いたからといって誇ることもありません。日照りが続けば根を伸ばし、枝を切られれば残された生命力で新しい芽を出そうとします。そこには、損得も、見栄も、打算もありません。ただ、自分に与えられた環境の中で、生命を全うしようとする。これは禅のいう「只管打坐(しかんたざ)」にも通じる姿勢ではないでしょうか。只管打坐とは、何かを得るために座るのではなく、ただひたすら座ることです。植物もまた、何かの見返りを求めて成長するわけではありません。植物の生命力で、もう一つ興味深いのは、失ったものに執着しないことです。枝を折られても、その枝を取り戻そうとはしません。葉が落ちても、落ちた葉を嘆くことはありません。残された生命を使って、次の成長へ向かいます。人間はどうでしょう。失った地位、財産、名誉、過去の成功、他人から受けた仕打ちなどに執着してしまいます。禅では、こうした執着から離れることを重視します。植物に人間のような意識があるわけではありませんが、その姿は、私たちに「失ったものではなく、今ある生命をどう生かすか」という問いを投げかけているように思います。さらに、植物は実を結びます。その実は、植物自身が食べるためのものではありません。鳥や動物が食べ、人間の食料となり、種子は次の生命へとつながります。植物が意識して他者に奉仕しているわけではありません。しかし、その生命活動は結果として多くの生命を支えています。これは、仏教の「縁起」や「利他」を考えるうえでも示唆に富んでいます。人間もまた、自分だけの力で生きているわけではありません。農作物を育てる人がいて、運ぶ人がいて、調理する人がいて、初めて食卓に食事が並びます。秋の収穫に感謝するということは、その背後にある無数の生命と人々の働きに感謝することでもあるのでしょう。道元禅師は『正法眼蔵』で、「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。」と説いています。 自分を学び尽くすことは、やがて自分への執着を忘れることにつながる、という教えです。畑で黙々と育つ野菜を眺めていると、この言葉が理屈ではなく、実感として理解できるのかもしれません。植物から学べつ事は多くありますが、、植物は一生懸命に生きているのに、一生懸命であることを誇らないという点です。人間は、努力すれば認めてもらいたい、成果を出せば評価してもらいたいと思います。植物は誰に褒められなくても花を咲かせ、誰に感謝されなくても実を結びます。植物から学ぶ事はたくさんあると思います。
著者 砂川昇建




