《職場の教養に学ぶ》
お題:無心の境地
2025年7月4日(金曜)
【今日の心がけ】とらわれない心を目指しましょう
砂川昇建の思うところ
「芸道における無心」「禅における無」「仏教における無(解脱)」は、どれも「自己を離れる」という意味で共通項を持っていますが、そのアプローチや目的、立脚点には違いがあります。芸道(茶道・武道・書道など)における「無心」とは、「自己意識を捨て、心を空にして対象と一体化する状態」これはたとえば剣道においては「斬ろう」という意識を超えて身体が自然に動く境地です。書道では筆が紙の上を自然に流れる。茶道では一挙手一投足が作法というより「気配」のように行われます。芸術・技の極致=「無心」→ 技法が完全に身体化され、主客が消える境地。 「我(エゴ)」の否定:「私が〇〇する」という心の働きを超える。「分別知」の放棄:言語・理屈による理解を超えて、「あるがまま」にある。「空(くう)」の体得:すべてのものに実体がないという仏教的理解の体感。禅では「無」や「空」は概念ではなく体験的に悟るものであり、それゆえに公案(例:「無」)などを用いて思考を突き詰め、突き抜けたときに、言語化不能の直感的理解に至るとされます。仏教の「無」は多義的ですが、特に「無我」「空」「無常」の教えの中に現れます。仏教における「無」とは、 固定した「私」というものは存在しない。 空、すべての現象には独立した実体がない(縁起の理)解脱、煩悩や執着を離れ、生死の苦から自由になること。ここでいう「無」や「空」は、単なる「無になる」ことではなく、存在や自己に対する執着を手放すことによって得られる自由な心、つまり「涅槃(ニルヴァーナ)」を意味します。 「無になろう」とする行為自体が、エゴ(我)であり、分別であり、思考である。人は、無になろうと思って「無」にはなれません。そう思う時点で「無」から離れている。 「無になる」ためには、無になろうとする意志さえ手放す。禅でいう「坐ることは、坐ることそのもの」芸道でいう「動くことは、技に意識がない状態」つまり、目的化された「無」は常に逃げていく。しかし、目的を超えた自然な境地の中に「無」は訪れる。纏めると、無とは「無になろうとしない無」道元禅師(13世紀)は、著作『正法眼蔵』の中で「身心脱落」という言葉を用います。これは「身(肉体)と心(意識)が脱け落ちる」ことであり、次のような意味があります。自我の束縛から解放される。意識の操作や自己コントロールを超えて、自然のままに生きる。それが坐禅の目的ではなく、「坐っていることがすでにそれである」つまり「無になろう」ではなく、「坐っていることそのものが無である」《道元の思想におけるポイント》修行とは「何かを得ること」ではなく、「あるがままに坐ること」すでに仏であるものが、それを忘れて仏になろうとするから迷う。「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。」「無」とは、何もない「0」と捉えれば簡単ですが、本質を追求すると奥深いものです。
著者 砂川昇建




